2017年6月25日日曜日

愛することをやめられない

 本日より一週間、日本バプテスト連盟の教会では神学校週間という期間を持ちます。日本バプテスト連盟の3つの神学校「西南学院神学部」「東京バプテスト神学校」「九州バプテスト神学校」を覚え、神学生のために祈りと献金をささげる時です。
 本日の大泉教会の礼拝では東京バプテスト神学校の専攻科で学んでいる神学生が説教を担当しました。説教原稿を以下に記載します。


「愛することをやめられない」ホセア書3章1~3節


 人は何度裏切られたら、愛することをやめられるのでしょうか。裏切られて、相手を憎いという思いに支配されたのだとしたら、それはなお相手を求める心に縛られている裏返しではないでしょうか。私たちの愛は神の愛に遠く及びませんが、どんなに裏切られ、傷ついたとしても、誰かを愛し、愛されたいという「愛の交わり」を求める心を失うことはできないのです。
 本日与えられましたホセア書に登場する預言者ホセアも、「裏切られても愛することをやめられない」ことに苦悩した一人です。彼は神からとんでもない命令を受けました。「姦淫の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」という神からの召命を受けるのです。その時のホセアの心情について聖書は何も語りませんが、彼の心をどれほどの嵐が吹き荒れたことでしょうか。今で言えば、「不倫願望バリバリの女と結婚して、外の男ともうけた子どもも引き取りなさい」と神様は命じておられるのです。私はホセアがどうしてこの命令に従うことができたのかとても不思議です。しかし、このシチュエーションを思いめぐらしながら思ったのです。ホセアはきっと、この姦淫の女ゴメルと「神の命令からの義務感」だけで結婚したのではなかったのだろうと。ゴメルと出会った時、ホセアはきっとこの性に奔放で、神の愛を知らない女性のことを愛したのはないでしょうか。彼女に対する嫌悪感でいっぱいだったら、神の命令に従うことはできなかったでしょう。神は、ホセアの心にゴメルに対する愛情をも備えられたのだろうと思うのです。
 こうしてホセアはゴメルと結婚しますが、ゴメルの浮気癖は留まるところを知りませんでした。ホセアは第一子として男の子『イズレエル』をもうけます。新共同訳では省かれているのですが、新改訳聖書の1章3節を見ると「彼女は身ごもって、『彼に』男の子を産んだ」と書かれています。しかし、第二子の女の子ロ・ルハマと第三子の男の子ロ・アミには、「彼に」ということばがありません。『ロ・ルハマ』と『ロ・アミ』は、ゴメルが姦淫によって産んだ不倫相手の子どもと考えられるのです。その後、ゴメルは男と一緒に去って行きました。ホセアと3人の子どもを残して。うち2人は不倫相手の子どもです。ホセアは妻が姦淫によってもうけた子どもをどのような思いで見つめていたことでしょう。哀しさ、やるせなさ、怒り、憎しみ。それでもなお、彼女を愛することを捨てきれない苦しみ。なぜこのような過酷な結婚生活を神は命じられたのでしょうか。
 それはホセアの結婚生活を通して、神様がイスラエルの民に対する悲しみを示そうとされたからでした。イスラエルの民が主なる神から離れて他の神々を拝むことは「霊的な姦淫」であり、神様が感じている痛みは、妻に裏切られている夫の苦しみと同じであるというのです。愛しても愛されない裏切りに満ちた結婚生活を送っていたホセアは、神様の痛みを身をもって体験することとなったのです。だからこそ彼の預言は切迫感がこもっていただろうと思います。
 そして、本日の聖書箇所である3章へと続きます。
主は再び、わたしに言われた。「行け。夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」
干しぶどうの菓子とは、小麦粉に干しぶどうを入れてつくった菓子で、秋の収穫感謝祭の時に天の女王と言われたアシェラにささげたものです。「天の女王アシェラ」は、ギリシャ語では女神「アルテミス」です。エペソとその周辺地域に福音が伝えられた時、ただならぬ大騒動が起こりました。使徒パウロが「手で造った物など神ではない」と人々に説き伏せたことによって、アルテミス神殿の模型を作っていた職人たちの収入が激減したのです。彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソのアルテミスだ」と叫び続けたので、町中が大騒ぎとなったのです(使徒192341)。この「アルテミス」が天の女王アシェラだったのです。
神様は、他の神々こそ「自分を養い救ってくれる」と錯覚し、偶像の神々に干しぶどうの菓子をささげることに熱中しているイスラエルの民をなおも愛することをやめられませんでした。なんという哀しいほどの愛でしょうか。ホセアはこの神の愛をもって、ゴメルを愛するように命じられるのです。ゴメルは奴隷、あるいは神殿娼婦という立場にまで転落してしまっており、代価を払って買い戻さなければならない状況にありました。そこで、ホセアは銀15シェケルと大麦1ホメルと1レテクを払って彼女を買い戻しました。出エジプト記21章32節には「もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合、銀30シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」とあります。突いたというのは殺すことです。とすれば、妻ゴメルを買い戻すために払った「15シェケルと大麦1ホメルと1レテク」というのは規定の半分を銀で払い、あとの半分は物品で支払ったと言えます。小麦より質の悪い大麦が代価の一部とされていることから、ゴメルはかなり落ちぶれていたのでしょう。ともあれ、ホセアは主に命じられたとおりに、哀れな生活をしていた彼女を買い取ったのです。そして言います。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」
ホセアの赦しは果たして本心だったのでしょうか。もしホセアがゴメルを真心から赦し、もう一度結婚生活を送りたいと願っていたのだとするならば、それはゴメルに対する怒りよりも、彼女を失いたくないという思いの方が勝っていたからではないでしょうか。一方ゴメルの心にも思いを馳せたいと思うのですが、彼女はどうしてそれほどまでに愛してくれた夫ホセアから離れて、姦淫を繰り返していたのでしょうか。2章7節にはこうあります。「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」
ホセアはゴメルを買い戻すために、銀30シェケルを払うことができず、半分の15シェケルの銀と残りの分は大麦を支払って彼女を買い戻しました。つまり、経済的にそれほど豊かではなかったことが伺えます。きっとゴメルの不倫相手は、ホセアに比べてゴメルに裕福な生活を提供することができたのでしょう。ゴメルにとって愛されることは自分の欲望を満たしてくれることでした。衣食を満たしてほしい、快楽を満たしてほしい。結婚という窮屈な制約には縛られたくない。ただ与えられることだけを求めていたのです。
しかし、愛されるということはただ欲望を満たしてくれることではありません。あなたという存在そのものを喜び、ともにいることを求める心です。ゴメルの不倫相手はゴメルを本当の意味で愛してはいませんでした。結果としてゴメルは男に捨てられ、娼婦というどん底にまで身をやつすことになります。毎日見知らぬ男性を相手にして体を売る生活。性のはけ口があれば、相手は誰でも良いと考えている男性と体を重ねる日々。「愛」とは対極の世界。私はいったい何を求めていたのだろう?愛されたいと願って、なぜ行きついた先がこんなところなのだろう?ゴメルは自問自答したのではないでしょうか。
私たちも、ゴメルのように真実の愛を知らない者です。貪欲に与えられることだけを求め、与えてくださる神の愛に気づかないで生きています。しかし、そんな主の愛に盲目な私たちに対し、神様は「あなたを失いたくない」という切実な願いを持って私たちを招いておられるのです。ゴメルは銀と大麦で買い取られましたが、私たちを買い取るために神が支払った代価はお金でも物でもありませんでした。それは、「イエス・キリストのいのち」だったのです。
なぜ神様は、私たちにそれほどまでの熱情を持って関わろうとされるのでしょうか。私は自らの罪深さに怖れおののく時に、「もういい加減神様は私に愛想を尽かされただろう」と何度となく思いました。イスラエルの民に何度となく裏切られ、憤り、悲しみ、嘆かれる神。だったら、もう愛することをやめたらいいのに、神は苦悩の果てにまた愛することを選びとられるのです。その神の愛と苦悩の連続が聖書に刻まれている歴史です。ですが、これが神の本質なのです。「神は愛です」と聖書が語る通り、神は愛そのものなのです。
そして、この神に似せて形づくられている私たちもまた「愚かであるとわかっていながら、愛することをやめられない」存在です。世の中は、こんなにも不正と悪で満ちているのに、神様を知らない人であっても「愛」の価値を完全に否定することはできないでしょう。愛するからこそ傷つき、愛されることを求めるからこそ苦しむのに、だったら愛など捨ててしまえばいいのに、私たちにはそれができないのではないでしょうか。それは人が神に似せてつくられたからこそなのです。
それでも私たちは時に、愛することに疲れ愛されないことに傷つきます。そんな時、神様が同じ苦悩を通りながらも、なおも私たちを愛することをやめずに手を差し伸べてくださっていることを思い出したいのです。ヨハネは言いました。「完全な愛は怖れを締め出す」と。私は皆さんにも、そして自分自身にも言いたいと思うのですが、もう二度と誰かを愛したくないと心に固く決めるほどに愛することを怖れていたとしても、その怖れを神の愛は締め出してくださると信じます。
私はかつて大きな裏切りにあった時に、「これほどまでに愛している相手から裏切られる私を、いったい誰が必要としてくれるのだろう」と涙を流しながら思ったことがあります。私が最も苦しかったことは、裏切られたことではありませんでした。裏切られてもなお、相手を求めている自分自身、その愚かしさが身をよじりたくなるほど苦しかったのです。しかし、その苦しみはホセアと、そして父なる神の苦しみであることを主は私に示してくださいました。そして、妻に幾度となく裏切られてもなおも妻を求め、連れ戻す夫のように、神様は私を求めておられるのだということにも気づきました。この方は決して私を裏切ることも捨てることもしないのだということを。
そしてこの方の愛に満たされた時、私たちの心に奇跡が起こります。神の愛はすべての人を包み、慰め、生かし、立ち上がらせます。神に治療できない傷はありません。神が喜びに変えられない失望もありません。神に触れられた私たちの心は窓が全開になるように、大きく開かれます。傷つくことを怖れて縮こまっている心は溶かされ、また誰かを愛する一歩を踏み出すことができるようになるのです。裏切った人を赦し、傷つけた人を受け入れる心が与えられるのです。もし今自分にはできないと思ったとしても、失望しないでください。神様の愛を知るということは、私たちがこの生涯をかけて行っていく一大事業なのです。昨日より明日、明日より明後日、私たちは神の愛を体験します。そして、神を愛するように人を愛することを学んでいくのです。

神は愛することをやめられません。私たちもまた、愛することを捨てきることはできません。そうであるならば、私たちは時に私たちを苦しめる「愛」と真正面から向き合う必要があるでしょう。愛の源は神にあります。この方にとらえられ、今日新しく神の愛と出会わせていただきましょう。ゴメルを買い取るようホセアに命じ、愛するひとり子イエスを十字架につけた神は私たちに語られます。「わたしのもとに留まりなさい。わたしもあなたにそうしよう」。

大野 夏希