2016年3月20日 棕櫚の主日の説教です。
「十字架」 説教者 木村一充牧師
○カトリックのシスターである渡辺和子さんが、20数年前に著した上掲随筆集の中で、彼女が青年時代に修道女として歩んでいた頃、ある宣教師がプレゼントしてくれた次のような詩を紹介しておられます。この詩は、最近の「置かれた場所で咲きなさい」という彼女の本の典拠となった詩であります。
「神が置いてくださったところで 咲きなさい。
仕方がない、と諦めてでなく「咲く」のです。
「咲く」ということは、自分が幸せに生き、
他人も幸せにするということです。
「咲く」ということは 周囲の人々に、あなたの笑顔が
「私は幸せなのだ」ということを示して
生きるということなのです。」―――(以下略)
○この詩を与えられた当時の彼女は、ちょうど思いがけず指名された管理職の重みにたえかね て、「今の仕事さえなければ、今の立場にさえなければ……」と心の中に呟くことの多い日々の 只中にあったといいます。人間は一人ひとりが花であり、花の使命は咲くことにあります。人間の 自由とは思うままにならない諸条件から解放される事でなく、それらの諸条件をどのように自分 を活かすために受けとめてゆくかということにおける自由なのだ、ということを、この詩を通して気付かされたと渡辺和子さんは言います。
○「安易な人生を願うよりも、どんな人生でも笑顔で乗り切る強い人になりなさい。自分にふさわしい仕事を願うよりも、与えられた仕事を果たすに必要な力を祈り求める人になりなさい。」
これは、ある年の卒業式で彼女が学生たちに送った言葉です。「この言葉は私自身の祈りの言
葉に他ならなかった」と彼女は告白していますが、世代に関係なく心に深く刻みたい言葉です。
(木村一充牧師)