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2017年6月25日日曜日

愛することをやめられない

 本日より一週間、日本バプテスト連盟の教会では神学校週間という期間を持ちます。日本バプテスト連盟の3つの神学校「西南学院神学部」「東京バプテスト神学校」「九州バプテスト神学校」を覚え、神学生のために祈りと献金をささげる時です。
 本日の大泉教会の礼拝では東京バプテスト神学校の専攻科で学んでいる神学生が説教を担当しました。説教原稿を以下に記載します。


「愛することをやめられない」ホセア書3章1~3節


 人は何度裏切られたら、愛することをやめられるのでしょうか。裏切られて、相手を憎いという思いに支配されたのだとしたら、それはなお相手を求める心に縛られている裏返しではないでしょうか。私たちの愛は神の愛に遠く及びませんが、どんなに裏切られ、傷ついたとしても、誰かを愛し、愛されたいという「愛の交わり」を求める心を失うことはできないのです。
 本日与えられましたホセア書に登場する預言者ホセアも、「裏切られても愛することをやめられない」ことに苦悩した一人です。彼は神からとんでもない命令を受けました。「姦淫の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ」という神からの召命を受けるのです。その時のホセアの心情について聖書は何も語りませんが、彼の心をどれほどの嵐が吹き荒れたことでしょうか。今で言えば、「不倫願望バリバリの女と結婚して、外の男ともうけた子どもも引き取りなさい」と神様は命じておられるのです。私はホセアがどうしてこの命令に従うことができたのかとても不思議です。しかし、このシチュエーションを思いめぐらしながら思ったのです。ホセアはきっと、この姦淫の女ゴメルと「神の命令からの義務感」だけで結婚したのではなかったのだろうと。ゴメルと出会った時、ホセアはきっとこの性に奔放で、神の愛を知らない女性のことを愛したのはないでしょうか。彼女に対する嫌悪感でいっぱいだったら、神の命令に従うことはできなかったでしょう。神は、ホセアの心にゴメルに対する愛情をも備えられたのだろうと思うのです。
 こうしてホセアはゴメルと結婚しますが、ゴメルの浮気癖は留まるところを知りませんでした。ホセアは第一子として男の子『イズレエル』をもうけます。新共同訳では省かれているのですが、新改訳聖書の1章3節を見ると「彼女は身ごもって、『彼に』男の子を産んだ」と書かれています。しかし、第二子の女の子ロ・ルハマと第三子の男の子ロ・アミには、「彼に」ということばがありません。『ロ・ルハマ』と『ロ・アミ』は、ゴメルが姦淫によって産んだ不倫相手の子どもと考えられるのです。その後、ゴメルは男と一緒に去って行きました。ホセアと3人の子どもを残して。うち2人は不倫相手の子どもです。ホセアは妻が姦淫によってもうけた子どもをどのような思いで見つめていたことでしょう。哀しさ、やるせなさ、怒り、憎しみ。それでもなお、彼女を愛することを捨てきれない苦しみ。なぜこのような過酷な結婚生活を神は命じられたのでしょうか。
 それはホセアの結婚生活を通して、神様がイスラエルの民に対する悲しみを示そうとされたからでした。イスラエルの民が主なる神から離れて他の神々を拝むことは「霊的な姦淫」であり、神様が感じている痛みは、妻に裏切られている夫の苦しみと同じであるというのです。愛しても愛されない裏切りに満ちた結婚生活を送っていたホセアは、神様の痛みを身をもって体験することとなったのです。だからこそ彼の預言は切迫感がこもっていただろうと思います。
 そして、本日の聖書箇所である3章へと続きます。
主は再び、わたしに言われた。「行け。夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」
干しぶどうの菓子とは、小麦粉に干しぶどうを入れてつくった菓子で、秋の収穫感謝祭の時に天の女王と言われたアシェラにささげたものです。「天の女王アシェラ」は、ギリシャ語では女神「アルテミス」です。エペソとその周辺地域に福音が伝えられた時、ただならぬ大騒動が起こりました。使徒パウロが「手で造った物など神ではない」と人々に説き伏せたことによって、アルテミス神殿の模型を作っていた職人たちの収入が激減したのです。彼らは大いに怒り、「偉大なのはエペソのアルテミスだ」と叫び続けたので、町中が大騒ぎとなったのです(使徒192341)。この「アルテミス」が天の女王アシェラだったのです。
神様は、他の神々こそ「自分を養い救ってくれる」と錯覚し、偶像の神々に干しぶどうの菓子をささげることに熱中しているイスラエルの民をなおも愛することをやめられませんでした。なんという哀しいほどの愛でしょうか。ホセアはこの神の愛をもって、ゴメルを愛するように命じられるのです。ゴメルは奴隷、あるいは神殿娼婦という立場にまで転落してしまっており、代価を払って買い戻さなければならない状況にありました。そこで、ホセアは銀15シェケルと大麦1ホメルと1レテクを払って彼女を買い戻しました。出エジプト記21章32節には「もし、牛が男奴隷あるいは女奴隷を突いた場合、銀30シェケルをその主人に支払い、その牛は石で打ち殺されなければならない。」とあります。突いたというのは殺すことです。とすれば、妻ゴメルを買い戻すために払った「15シェケルと大麦1ホメルと1レテク」というのは規定の半分を銀で払い、あとの半分は物品で支払ったと言えます。小麦より質の悪い大麦が代価の一部とされていることから、ゴメルはかなり落ちぶれていたのでしょう。ともあれ、ホセアは主に命じられたとおりに、哀れな生活をしていた彼女を買い取ったのです。そして言います。「お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる。」
ホセアの赦しは果たして本心だったのでしょうか。もしホセアがゴメルを真心から赦し、もう一度結婚生活を送りたいと願っていたのだとするならば、それはゴメルに対する怒りよりも、彼女を失いたくないという思いの方が勝っていたからではないでしょうか。一方ゴメルの心にも思いを馳せたいと思うのですが、彼女はどうしてそれほどまでに愛してくれた夫ホセアから離れて、姦淫を繰り返していたのでしょうか。2章7節にはこうあります。「愛人たちについて行こう。パンと水、羊毛と麻、オリーブ油と飲み物をくれるのは彼らだ。」
ホセアはゴメルを買い戻すために、銀30シェケルを払うことができず、半分の15シェケルの銀と残りの分は大麦を支払って彼女を買い戻しました。つまり、経済的にそれほど豊かではなかったことが伺えます。きっとゴメルの不倫相手は、ホセアに比べてゴメルに裕福な生活を提供することができたのでしょう。ゴメルにとって愛されることは自分の欲望を満たしてくれることでした。衣食を満たしてほしい、快楽を満たしてほしい。結婚という窮屈な制約には縛られたくない。ただ与えられることだけを求めていたのです。
しかし、愛されるということはただ欲望を満たしてくれることではありません。あなたという存在そのものを喜び、ともにいることを求める心です。ゴメルの不倫相手はゴメルを本当の意味で愛してはいませんでした。結果としてゴメルは男に捨てられ、娼婦というどん底にまで身をやつすことになります。毎日見知らぬ男性を相手にして体を売る生活。性のはけ口があれば、相手は誰でも良いと考えている男性と体を重ねる日々。「愛」とは対極の世界。私はいったい何を求めていたのだろう?愛されたいと願って、なぜ行きついた先がこんなところなのだろう?ゴメルは自問自答したのではないでしょうか。
私たちも、ゴメルのように真実の愛を知らない者です。貪欲に与えられることだけを求め、与えてくださる神の愛に気づかないで生きています。しかし、そんな主の愛に盲目な私たちに対し、神様は「あなたを失いたくない」という切実な願いを持って私たちを招いておられるのです。ゴメルは銀と大麦で買い取られましたが、私たちを買い取るために神が支払った代価はお金でも物でもありませんでした。それは、「イエス・キリストのいのち」だったのです。
なぜ神様は、私たちにそれほどまでの熱情を持って関わろうとされるのでしょうか。私は自らの罪深さに怖れおののく時に、「もういい加減神様は私に愛想を尽かされただろう」と何度となく思いました。イスラエルの民に何度となく裏切られ、憤り、悲しみ、嘆かれる神。だったら、もう愛することをやめたらいいのに、神は苦悩の果てにまた愛することを選びとられるのです。その神の愛と苦悩の連続が聖書に刻まれている歴史です。ですが、これが神の本質なのです。「神は愛です」と聖書が語る通り、神は愛そのものなのです。
そして、この神に似せて形づくられている私たちもまた「愚かであるとわかっていながら、愛することをやめられない」存在です。世の中は、こんなにも不正と悪で満ちているのに、神様を知らない人であっても「愛」の価値を完全に否定することはできないでしょう。愛するからこそ傷つき、愛されることを求めるからこそ苦しむのに、だったら愛など捨ててしまえばいいのに、私たちにはそれができないのではないでしょうか。それは人が神に似せてつくられたからこそなのです。
それでも私たちは時に、愛することに疲れ愛されないことに傷つきます。そんな時、神様が同じ苦悩を通りながらも、なおも私たちを愛することをやめずに手を差し伸べてくださっていることを思い出したいのです。ヨハネは言いました。「完全な愛は怖れを締め出す」と。私は皆さんにも、そして自分自身にも言いたいと思うのですが、もう二度と誰かを愛したくないと心に固く決めるほどに愛することを怖れていたとしても、その怖れを神の愛は締め出してくださると信じます。
私はかつて大きな裏切りにあった時に、「これほどまでに愛している相手から裏切られる私を、いったい誰が必要としてくれるのだろう」と涙を流しながら思ったことがあります。私が最も苦しかったことは、裏切られたことではありませんでした。裏切られてもなお、相手を求めている自分自身、その愚かしさが身をよじりたくなるほど苦しかったのです。しかし、その苦しみはホセアと、そして父なる神の苦しみであることを主は私に示してくださいました。そして、妻に幾度となく裏切られてもなおも妻を求め、連れ戻す夫のように、神様は私を求めておられるのだということにも気づきました。この方は決して私を裏切ることも捨てることもしないのだということを。
そしてこの方の愛に満たされた時、私たちの心に奇跡が起こります。神の愛はすべての人を包み、慰め、生かし、立ち上がらせます。神に治療できない傷はありません。神が喜びに変えられない失望もありません。神に触れられた私たちの心は窓が全開になるように、大きく開かれます。傷つくことを怖れて縮こまっている心は溶かされ、また誰かを愛する一歩を踏み出すことができるようになるのです。裏切った人を赦し、傷つけた人を受け入れる心が与えられるのです。もし今自分にはできないと思ったとしても、失望しないでください。神様の愛を知るということは、私たちがこの生涯をかけて行っていく一大事業なのです。昨日より明日、明日より明後日、私たちは神の愛を体験します。そして、神を愛するように人を愛することを学んでいくのです。

神は愛することをやめられません。私たちもまた、愛することを捨てきることはできません。そうであるならば、私たちは時に私たちを苦しめる「愛」と真正面から向き合う必要があるでしょう。愛の源は神にあります。この方にとらえられ、今日新しく神の愛と出会わせていただきましょう。ゴメルを買い取るようホセアに命じ、愛するひとり子イエスを十字架につけた神は私たちに語られます。「わたしのもとに留まりなさい。わたしもあなたにそうしよう」。

大野 夏希

2016年9月11日日曜日

2016.9.3 夕礼拝説教「心と体で あなたのすべてで」

 この夕礼拝でたくさんの方と礼拝をささげることのできる喜びを感謝します。
 今回は音楽委員会主催の夕礼拝ということで、ダンスや手話といった表現での賛美がささげられました。とても、新鮮な気持ちで賛美することができたのではないでしょうか。
 聖書にはさまざまな賛美の描写があります。楽器の種類だけでも実に多様です。琴、つのぶえ、太鼓、笛、シンバル、タンバリンなどです。旧約の時代から、私たちは様々な楽器を通して賛美をささげ、もちろんほめ歌もささげられてきました。今、この時代も豊かな楽器に恵まれています。今はなかなか弾ける人がいませんが、地下にはギターがあり、何年か前には青少年たちが礼拝に用いたこともありました。私は大学時代、「賛美チーム」という奉仕グループに所属しており、その活動を通して信仰を与えられたのですが、そのチームで演奏した楽器も思い返すと実にたくさんありました。ピアノ、オルガン、ギター、ベース、カーホンという箱のようなかたちをした打楽器、バイオリン。残念ながら、私は何も楽器を演奏できないのでもっぱら歌うだけでしたが、多くの楽器で調和したハーモニーを奏でることは実に麗しく、天国の扉を開いたかのように感じられたものです。
そして、賛美は歌や楽器だけにとどまらないことは今皆様がご覧になった通りです。ダンスや手話を通してささげられる視覚的な賛美も、本当に私たちの心を打ちますし、神さまもそう感じておられることでしょう。しかし、賛美はもっと単純な方法でもささげられます。「手を挙げる」「ひざまずく」「手を叩く」「叫ぶ」といった方法で神をほめたたえた記事が聖書にはたくさんあります。神はたくさんの手段を通して神を賛美することができるように私たちを造ってくださいました。声が出ない人も、手がない人も、足がない人も賛美できるように。神が私たちに与えてくださった肉体は本当に繊細で、驚くほどにダイナミックでたくさんの動きをすることができます。私たちの五感は実にさまざまなことを感じ取ることができ、そのすべては神が与えてくださったものです。なんとすばらしい賛美する器を私たちはいただいたのでしょうか。この体をフルに使わなければもったいないですね。
 そもそも賛美とは、神をほめたたえる喜びの表現です。となれば、私たち自身が神を喜ぶことから出発するべきでしょう。しかし不思議なことに、必ずしも喜びが最初にあって、賛美が生まれるわけではないことを私たちはしばしば経験します。賛美そのものに力があるのです。「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22篇)と聖書が言うとおりです。賛美は私たちを、神様を礼拝するように導く力があります。私もしばしばしてしまうのですが、「今日の夕飯何にしようかしら」とか、「ああ、明日からの仕事が憂鬱だな」と神を礼拝するにはほど遠い態度であったとしても、神は賛美を通して神の栄光を仰ぎ見るようにさせ、主を礼拝する心まで備えてくださるのです。それはつまり、神を喜べない時であってさえも、私たちは賛美することができるということです。そう考えると、私たちのほうが賛美をささげると言いつつも、賛美がすばらしい神さまからの賜物だと気づきます。賛美を通して、私たちは思い返すことができるのです。神は、私たちがどのような状況であっても変わらないお方であること。主イエスが十字架の上でささげられた犠牲が私への愛の現れだということ。神が今までの人生でしてくださった恵みの数々を。
それでも賛美できない時がありますか?私もありました。そんな時は神に叫びましょう。詩篇の多くが嘆きと恨みで始まった言葉が最後には賛美に変わることを教えています。私たちは神さまの前で正直であるべきです。往々にして私たちは神さまに自分の本当の心を隠そうとしがちです。創世期の時代にアダムとエバが罪を犯してから、私たちは神の前に自分のありのままの姿を見せることができなくなってしまいました。本当は賛美なんかできない苦い思いでいるのに、心を閉ざした偽りの賛美をささげてしまうことはないでしょうか。けれども、それを神は望まれてはいません。神は私たちに偽ってほしくもないし、無理することも望んでおられません。私たちに正直になってほしいと願っておられると私は信じています。神さまの前に心を開け放つことが賛美の始まりであり、真実の礼拝に到達するために必要なステップなのです。
さて、本日読んでくださった詩篇148篇は、天使も自然現象も、動植物さえも賛美せよと命じられています。彼らはどうやって賛美するのでしょうか。私たちと同じように、歌ったり楽器を奏でたり踊ったりすることはもちろんできません。皆さん、彼らが賛美するとはどういうことを意味すると思いますか?彼らにとって、自身の役割を精一杯全うすることが主を賛美することなのです。鳥にとっては空を飛び、巣をつくることが賛美です。星々は美しくきらめくことが賛美することです。火は燃え上がることが賛美することです。
 そう考えると、賛美するということは私たちの生き方に密接に関わってくる問題だということがわかります。自然現象が、動植物たちが自らの役割を余すことなく全うすることが賛美であるならば、私たちは神さまが造ってくださった唯一無二の私という存在を精一杯生きることが賛美することなのです。それが、私たちが神に栄光を帰す行為であるからです。私たちが「神を喜び、神のために精一杯生きること」が賛美なのです。
神は、私たちに感情を備えられ、喜び楽しむ賜物をくださいました。しかし、神はそれを自分の欲を満足させることに終始させるためではなく、神を喜び賛美するために与えられたのです。私は大学時代に信仰を与えられ信仰生活を育まれていく中で、自分が生きたいように欲のままに生きていくということがいかにむなしいかを悟りました。コヘレトの言葉を記したソロモンは、父ダビデ王の後栄華を極め、欲しいものは何でも手に入れることができる権力と富、そして人生についての英知をも神さまから賜りました。しかし、それらすべてはむなしいと言っています。お金も、力も、知識も、能力も、自分の自己実現のためではなく、これらを通して人に仕え、神の栄光を現すために与えられているのです。私たちが持っているものはそれぞれ違います。興味を持っていること、得意としていること、楽しむことのできる対象もそれぞれ違います。神さまが皆さんに与えられた環境、個性は皆さんにしかないものです。だから、他の誰かのようになろうとする必要もないし、自分にないものを誰かが持っているのをうらやむ必要もありません。鳥は魚にはなれませんし、ひまわりがバラにはなれません。私が最も自分らしくあることが神さまを賛美することなのです。他の誰かに決してとって代わることのできない私とは、どのような私でしょうか。何が好きで、何が苦手で、何をしている時がうれしく、どんなことが退屈でしょうか。どんなことをしている時が神さまに感謝できるでしょうか。神さまってすばらしいと思える事柄はなんでしょうか? もし、このことを通して神さまのために生きていきたいと思える事柄が見つかっていないのであれば、神さまに問い続けてみてください。必ず、神さまはご自分の民一人ひとりにどんなことを通して、自分自身の使命を全うすればいいのかを教えてくださると私は信じています。
こう申し上げると、神さまは私のいいところだけを用いるのねと思われるかもしれませんが、実はそうではないのです。私は牧師になるように神さまから召されたと信じていますが、自分ではまったく牧師に向いている資質を持っているとは思っていません。実はとても引っ込み思案で知らない人と話すことは苦手だし、気のきいた話題を提供することもできません。精神的にタフというわけでもないし、こういう体型なので皆さん勘違いされるかもしれませんが、ものすごく健康というわけでもありません。最近は2週間近くも風邪が治らず、つくづく年を取ったと感じ入ったものでした。若い頃、今でも多少そうなのですが、私は劣等感の塊でした。美人でもなければ、頭も良くない。太っていて、性格は暗く、周りからは無視されて話しかけてももらえない。どこをどう探しても、自分には何の取り得もないと思っていました。小学校の先生が一度だけ私をほめてくれたことがあるのですが、「大野さんは素直なところがいいところよね」と言われました。素直じゃない子どもなんて、いるわけがありません。それぐらいしかほめるところがない人間だったわけです。
しかし神さまと出会い、私は恥と汚点だらけの人生が神さまから用いられることを知りました。私が劣等感の塊で人を信じることができなかったからこそ、私は神の愛が必要だと気付くことができたのです。そして、主イエスを信じて自分自身のすべてを神さまにささげたことで、このいびつな私という弱さや欠けすらも通して、神さまがご自身を現していかれるということを知ったのです。私は内気ですが、神様に頼ることで大胆になることができます。ぽっちゃりしていますが、神の愛は世の美しさには左右されないことをあかしできます。傷つきやすいおかげで、傷ついて苦しんでいる人の気持ちに寄りそうことができます。私のいいところも、悪いところも、人生で起こったうれしかったことも、苦しかったことも、神さまはご自身の栄光を現すために用いてくださいます。そして、私は主を賛美するのです。「私は神さまをほめたたえるために造られたのだ」と。
 ですから、だれでも神さまを賛美できます。そして、すべての人が賛美するように召されているのです。心で、体で、この人生を通して、主がどんなに私たちを愛し、どんなにいつくしみに富み、どんなにありのままのあなたを通して、神がご自身を現したいと願っておられるかを私たちは賛美を通して現していくのです。そんな私たちを見て、神はほほえまれるでしょう。「これこそ、私の心にかなった者」と。
「主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く、威光は天地に満ちている。主はご自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ」

 私たちが、私たちの環境、個性、今までに起こったすべてのこと、この体と心のすべてを通して、主を賛美することができますように。そして、人生の日の最後に「私は主に愛され、その愛を賛美し続けた幸いな人生だった」と笑って召されることができれば、これにまさる生き方はないのではないでしょうか。ハレルヤ。


神学校生 大野 夏希

2016年3月26日土曜日

十字架

2016年3月20日 棕櫚の主日の説教です。
「十字架」 説教者 木村一充牧師 

2016年2月28日日曜日

赦せば赦される

2016年2月28日の説教です。

「赦せば赦される」 説教者 大田雅一牧師

https://youtu.be/RTj2ZZQQqp8

2016年2月18日木曜日

信仰と国家

2/14 主日礼拝説教の動画です。
「信仰と国家」
説教者 木村一充牧師
https://youtu.be/I2TQMtbwUhg

2015年10月13日火曜日

「今、ここにいる意味」

このブログでは特別礼拝などの説教の音源もアップしていきたいと思っています。
かなりさかのぼったものになりますが、6月28日に行った青年会主催の特別礼拝の説教です。

説教者:奈良キリスト教会 横井道継牧師
説教題「今、ここにいる意味」

https://www.youtube.com/watch?v=yXguzzZeJww&feature=youtu.be

2015年2月28日土曜日

ソロモンの雅歌(2月15日説教) 

「恋しい人は言います。『恋人よ、美しいひとよ。さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。恋人よ、美しいひとよ。さあ、立って出ておいで。岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ。姿を見せ、声を聞かせておくれ。お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。』
狐たちをつかまえてください。ぶどう畑を荒らす小狐を。わたしたちのぶどう畑は花盛りですから。恋しいあの人はわたしのもの。わたしはあの人のもの。ゆりの中で群れを飼っている人のもの。夕べの風が騒ぎ、影が闇にまぎれる前に、恋しい人よ、どうか、かもしかのように、若い雄鹿のように深い山へ帰って来てください。」(雅歌2:10-17


雅歌はソロモン王が作ったと伝えられる優雅な恋の歌です。新共同訳では歌の言葉の前に「おとめの歌」「若者の歌」「合唱」とあり、オペラのようにパートが決まっています。もとは結婚式で歌われた祝婚歌だといわれます。今日のところは「おとめの歌」で花嫁から見た歌です。若者が「美しい恋人よ、ぼくの元においで」と優しく呼びかけます。自然の風景の描写が美しく詩的です。イスラエルでも二月が終わる頃、雨季が終わって短い春が来ます。神の造られた美しい自然も春、人間にも人生の春が訪れます。舞台は果樹園で子孫の繁栄もイメージされています。このあとおとめから若者に応答のことばがあります。狐たちをつかまえてください。すなわち、恋の旅路を邪魔する者をつかまえてください、と。そして続けます。「恋しいあの人はわたしのもの。わたしはあの人のもの。」イスラエルでは今も結婚式の新郎新婦の誓いのときにこの言葉が読まれるそうです。夫婦は一心同体となるのです。「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。」(創世2:24
ハッピーエンドのようですが、最後の言葉は寂しげです。若い時はお互いに熱烈に恋愛して一緒になっても、年を取るにつれて心が離れていく。人生の夕べに夜の闇が訪れる時まで、お互いに助け合い愛し合う夫婦でいたいですね。

 さて、雅歌をラブソングとして読んできましたが、それだけでは正典の聖書には載らなかったでしょう。おとめと青年は何かのたとえではないでしょうか。おとめをイスラエルの民としたら、青年はソロモンのような王であり、さらには人間を治める王、主なる神です。おとめが青年を慕うように熱烈な愛をもって、心を尽くし思いを尽くして、イスエラルの民が主なる神を愛する、そして主なる神も、ご自分の民である私たちを愛してくださる。しかしそれは旧約の民、ユダヤ教徒の場合です。私たち新約の民、クリスチャンをおとめとすれば、恋しいお方とはどなたですか。教会を「キリストの花嫁」とたとえます。救い主イエス・キリストの花嫁が、私たちの教会ということです。青年イエスは独身でいらした。人々のため日夜働かれ、結婚をするひまもありませんでした。教会のことを「キリストの体」とも言います。主イエスは、この世で成し遂げたかった平和を実現し、伝えたかった愛の教えを人々に伝えていくために、この世に教会を与えられました。私たちは、キリストの花嫁である教会を守り、主イエスにお仕えしていきましょう。

(説教者 大田雅一協力牧師)