この夕礼拝でたくさんの方と礼拝をささげることのできる喜びを感謝します。
今回は音楽委員会主催の夕礼拝ということで、ダンスや手話といった表現での賛美がささげられました。とても、新鮮な気持ちで賛美することができたのではないでしょうか。
聖書にはさまざまな賛美の描写があります。楽器の種類だけでも実に多様です。琴、つのぶえ、太鼓、笛、シンバル、タンバリンなどです。旧約の時代から、私たちは様々な楽器を通して賛美をささげ、もちろんほめ歌もささげられてきました。今、この時代も豊かな楽器に恵まれています。今はなかなか弾ける人がいませんが、地下にはギターがあり、何年か前には青少年たちが礼拝に用いたこともありました。私は大学時代、「賛美チーム」という奉仕グループに所属しており、その活動を通して信仰を与えられたのですが、そのチームで演奏した楽器も思い返すと実にたくさんありました。ピアノ、オルガン、ギター、ベース、カーホンという箱のようなかたちをした打楽器、バイオリン。残念ながら、私は何も楽器を演奏できないのでもっぱら歌うだけでしたが、多くの楽器で調和したハーモニーを奏でることは実に麗しく、天国の扉を開いたかのように感じられたものです。
そして、賛美は歌や楽器だけにとどまらないことは今皆様がご覧になった通りです。ダンスや手話を通してささげられる視覚的な賛美も、本当に私たちの心を打ちますし、神さまもそう感じておられることでしょう。しかし、賛美はもっと単純な方法でもささげられます。「手を挙げる」「ひざまずく」「手を叩く」「叫ぶ」といった方法で神をほめたたえた記事が聖書にはたくさんあります。神はたくさんの手段を通して神を賛美することができるように私たちを造ってくださいました。声が出ない人も、手がない人も、足がない人も賛美できるように。神が私たちに与えてくださった肉体は本当に繊細で、驚くほどにダイナミックでたくさんの動きをすることができます。私たちの五感は実にさまざまなことを感じ取ることができ、そのすべては神が与えてくださったものです。なんとすばらしい賛美する器を私たちはいただいたのでしょうか。この体をフルに使わなければもったいないですね。
そもそも賛美とは、神をほめたたえる喜びの表現です。となれば、私たち自身が神を喜ぶことから出発するべきでしょう。しかし不思議なことに、必ずしも喜びが最初にあって、賛美が生まれるわけではないことを私たちはしばしば経験します。賛美そのものに力があるのです。「あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22篇)と聖書が言うとおりです。賛美は私たちを、神様を礼拝するように導く力があります。私もしばしばしてしまうのですが、「今日の夕飯何にしようかしら」とか、「ああ、明日からの仕事が憂鬱だな」と神を礼拝するにはほど遠い態度であったとしても、神は賛美を通して神の栄光を仰ぎ見るようにさせ、主を礼拝する心まで備えてくださるのです。それはつまり、神を喜べない時であってさえも、私たちは賛美することができるということです。そう考えると、私たちのほうが賛美をささげると言いつつも、賛美がすばらしい神さまからの賜物だと気づきます。賛美を通して、私たちは思い返すことができるのです。神は、私たちがどのような状況であっても変わらないお方であること。主イエスが十字架の上でささげられた犠牲が私への愛の現れだということ。神が今までの人生でしてくださった恵みの数々を。
それでも賛美できない時がありますか?私もありました。そんな時は神に叫びましょう。詩篇の多くが嘆きと恨みで始まった言葉が最後には賛美に変わることを教えています。私たちは神さまの前で正直であるべきです。往々にして私たちは神さまに自分の本当の心を隠そうとしがちです。創世期の時代にアダムとエバが罪を犯してから、私たちは神の前に自分のありのままの姿を見せることができなくなってしまいました。本当は賛美なんかできない苦い思いでいるのに、心を閉ざした偽りの賛美をささげてしまうことはないでしょうか。けれども、それを神は望まれてはいません。神は私たちに偽ってほしくもないし、無理することも望んでおられません。私たちに正直になってほしいと願っておられると私は信じています。神さまの前に心を開け放つことが賛美の始まりであり、真実の礼拝に到達するために必要なステップなのです。
さて、本日読んでくださった詩篇148篇は、天使も自然現象も、動植物さえも賛美せよと命じられています。彼らはどうやって賛美するのでしょうか。私たちと同じように、歌ったり楽器を奏でたり踊ったりすることはもちろんできません。皆さん、彼らが賛美するとはどういうことを意味すると思いますか?彼らにとって、自身の役割を精一杯全うすることが主を賛美することなのです。鳥にとっては空を飛び、巣をつくることが賛美です。星々は美しくきらめくことが賛美することです。火は燃え上がることが賛美することです。
そう考えると、賛美するということは私たちの生き方に密接に関わってくる問題だということがわかります。自然現象が、動植物たちが自らの役割を余すことなく全うすることが賛美であるならば、私たちは神さまが造ってくださった唯一無二の私という存在を精一杯生きることが賛美することなのです。それが、私たちが神に栄光を帰す行為であるからです。私たちが「神を喜び、神のために精一杯生きること」が賛美なのです。
神は、私たちに感情を備えられ、喜び楽しむ賜物をくださいました。しかし、神はそれを自分の欲を満足させることに終始させるためではなく、神を喜び賛美するために与えられたのです。私は大学時代に信仰を与えられ信仰生活を育まれていく中で、自分が生きたいように欲のままに生きていくということがいかにむなしいかを悟りました。コヘレトの言葉を記したソロモンは、父ダビデ王の後栄華を極め、欲しいものは何でも手に入れることができる権力と富、そして人生についての英知をも神さまから賜りました。しかし、それらすべてはむなしいと言っています。お金も、力も、知識も、能力も、自分の自己実現のためではなく、これらを通して人に仕え、神の栄光を現すために与えられているのです。私たちが持っているものはそれぞれ違います。興味を持っていること、得意としていること、楽しむことのできる対象もそれぞれ違います。神さまが皆さんに与えられた環境、個性は皆さんにしかないものです。だから、他の誰かのようになろうとする必要もないし、自分にないものを誰かが持っているのをうらやむ必要もありません。鳥は魚にはなれませんし、ひまわりがバラにはなれません。私が最も自分らしくあることが神さまを賛美することなのです。他の誰かに決してとって代わることのできない私とは、どのような私でしょうか。何が好きで、何が苦手で、何をしている時がうれしく、どんなことが退屈でしょうか。どんなことをしている時が神さまに感謝できるでしょうか。神さまってすばらしいと思える事柄はなんでしょうか?
もし、このことを通して神さまのために生きていきたいと思える事柄が見つかっていないのであれば、神さまに問い続けてみてください。必ず、神さまはご自分の民一人ひとりにどんなことを通して、自分自身の使命を全うすればいいのかを教えてくださると私は信じています。
こう申し上げると、神さまは私のいいところだけを用いるのねと思われるかもしれませんが、実はそうではないのです。私は牧師になるように神さまから召されたと信じていますが、自分ではまったく牧師に向いている資質を持っているとは思っていません。実はとても引っ込み思案で知らない人と話すことは苦手だし、気のきいた話題を提供することもできません。精神的にタフというわけでもないし、こういう体型なので皆さん勘違いされるかもしれませんが、ものすごく健康というわけでもありません。最近は2週間近くも風邪が治らず、つくづく年を取ったと感じ入ったものでした。若い頃、今でも多少そうなのですが、私は劣等感の塊でした。美人でもなければ、頭も良くない。太っていて、性格は暗く、周りからは無視されて話しかけてももらえない。どこをどう探しても、自分には何の取り得もないと思っていました。小学校の先生が一度だけ私をほめてくれたことがあるのですが、「大野さんは素直なところがいいところよね」と言われました。素直じゃない子どもなんて、いるわけがありません。それぐらいしかほめるところがない人間だったわけです。
しかし神さまと出会い、私は恥と汚点だらけの人生が神さまから用いられることを知りました。私が劣等感の塊で人を信じることができなかったからこそ、私は神の愛が必要だと気付くことができたのです。そして、主イエスを信じて自分自身のすべてを神さまにささげたことで、このいびつな私という弱さや欠けすらも通して、神さまがご自身を現していかれるということを知ったのです。私は内気ですが、神様に頼ることで大胆になることができます。ぽっちゃりしていますが、神の愛は世の美しさには左右されないことをあかしできます。傷つきやすいおかげで、傷ついて苦しんでいる人の気持ちに寄りそうことができます。私のいいところも、悪いところも、人生で起こったうれしかったことも、苦しかったことも、神さまはご自身の栄光を現すために用いてくださいます。そして、私は主を賛美するのです。「私は神さまをほめたたえるために造られたのだ」と。
ですから、だれでも神さまを賛美できます。そして、すべての人が賛美するように召されているのです。心で、体で、この人生を通して、主がどんなに私たちを愛し、どんなにいつくしみに富み、どんなにありのままのあなたを通して、神がご自身を現したいと願っておられるかを私たちは賛美を通して現していくのです。そんな私たちを見て、神はほほえまれるでしょう。「これこそ、私の心にかなった者」と。
「主の御名を賛美せよ。主の御名はひとり高く、威光は天地に満ちている。主はご自分の民の角を高く上げてくださる。それは主の慈しみに生きるすべての人の栄誉。主に近くある民、イスラエルの子らよ」
私たちが、私たちの環境、個性、今までに起こったすべてのこと、この体と心のすべてを通して、主を賛美することができますように。そして、人生の日の最後に「私は主に愛され、その愛を賛美し続けた幸いな人生だった」と笑って召されることができれば、これにまさる生き方はないのではないでしょうか。ハレルヤ。
神学校生 大野 夏希