2016年2月28日日曜日

2016年2月18日木曜日

2016年2月6日土曜日

渡辺和子著「心に愛がなければ」より

○カトリックのシスターである渡辺和子さんの上の本の中に、彼女がはじめて「天使祝詞」という聖母マリヤへの祈りを習ったとき、その終わりの方に「今も、臨終の時もわれらのために祈りたまえ」という言葉があってその「臨終の時も」という言葉が大切だと教えられ、その意味が若い時はよくわからなかったとあります。死に際にそう祈るのなら分かるが、元気な時、なぜ毎日のようにそう祈らねばならないのかと……
○この疑問について、渡辺さんはマザー・テレサのインドでの奉仕活動から学ぶことでその理由がわかったと言います。マザーが、臨終が近いと思われる人々を「死を待つ人の家」に連れて行って、その最後を見取るという奉仕をしていたとき、「なぜ生き返る見込みのある人にしないのか。手当てをしてもどうせ死ぬに決まっている人に対して、薬や手間がもったいないではないか」と言う人があらわれた。それに対してマザーは、「人間にとって生きることも大切だが、死ぬこと、それもよく死ぬことはもっと大切です」と答えたというのです。
○出生の時から「望まれない子」として生まれ、邪魔者扱いをされ、穀つぶしと呼ばれて一生を過ごした人にとっては、それまでに生きる意味や価値を見失い、自分は生まれなかった方が良かったのではないか、というような思いを抱いた事もあったはずです。そんな彼らが、人生の最後の時、死の直前に大切にされることで「生きてきてよかった」と一瞬でも思えたら、それは「よく死ぬ」以外の何ものでもありません。
○一人の日本人医師がインドに行き、カルカッタでマザーの奉仕をつぶさに見て、そこで一緒に働いたのちに、帰国してこう呟いたといいます。「マザーのところには見るべき医療はなかったが、真の看護があった」これは心に残る言葉です。
(木村一充牧師)